短編小説「ようこそ、Bar Serendipityへ」

  • 小説ゼミ2

次呂久 真司

一般公開

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2024年、文芸演習での前期課題です。

あらすじ

「Bar Serendipity」のマスター古田洋介は、弁護士の上原里胡と出逢い系コンサルタント村山蒼と共に、DVに苦しむ佐藤夫妻の救済に挑む。彼らの努力を通じて、愛と再生、新たな一歩を描く物語。

短編小説 「Bar Serendipity

Serendipity――何かを探しているときに思いもよらず素晴らしいものを発見すること、または幸運に巡り合うことを表す言葉。

1 上原里胡

「いいえ、こちらが譲歩することは決してありません。全ての条件を了承していただけないのなら、次は人権を侵されたと主張してもいいですよ。さらに上の裁判所で話しを進めることも、こちらとしては考えております」

上原里胡は、感情を表に出すことなく冷たい視線を相手の弁護士に向けた。家庭裁判所で離婚調停の代理人として弁護を担当している里胡は、これまでにも夫に虐げられてきた女性たちの弁護を引き受け無敵の勝敗を積み重ねてきた。今回の離婚調停では、家庭を顧みずに離婚にまで追いやった夫が、事もあろうに親権を主張してきた。妻の依頼者は、仕事と家庭を両立してきたというのに休みの日は馬鹿な夫の面倒まで看て来たはずだ。里胡は、夫側に親権を放棄するよう求めているのだ。母の時は、父親の日常的な暴力に怯え夜逃げ同然で家を飛び出した。それでも母が父親と離婚するまでに長い年月が掛かったのは、母が社会的に弱者で世間の目を気にして離婚の調停に臨まなかったからだ。今思えば、母のような人が三十年前には多かったのだろう。同級生の中にも同じ境遇の友達が数名はいた。

「分かりました、少し時間をください」依頼者の夫側の代理人で参席している弁護士は、そう言って席を外した。おそらく事務所に電話をし今後の策略を練っているのだろう。しかし、里胡には勝機が見えていた。大抵の場合、夫側は裁判になることを恐れ条件を飲むことの方が多い。それもそのはず、家庭の仕事の大半を妻に任せっきりで週末は自分の時間を主張してくる男ほど子育てを簡単に見ている。結局、周りから説得されて親権を放棄することが多いからだ。仕事と家庭の両立は、女だろうが男だろうが難しい。鼻から協力する気がないのなら、子どもを産まなければいい。里胡の脳裡にそんなことが渦巻いていたが、それとこれとは別なのだと理解はしている。結局、調停は次回に持ち越されることになった。次で調停不成立なら裁判所に申し出を行うと脅したのだから、百パーセントの確立で夫側は条件を飲む。家庭のことよりも自分の面目が潰れることをいつの時代も男性は恐れているのだから。

家庭裁判所を出た里胡は弁護士事務所に戻り、雑務を少し行ってから午後八時には帰路についた。秋風がビル街を走り抜けるので、ビルとビルの谷間では時折突風が里胡の長い黒髪を乱暴に撫でる。里胡はコートの襟を立てて縮こまりながら、オリーブの木が見えるBarへと急いだ。そこは二年前に今の事務所に引き抜かれたとき親睦会として入店してからというもの、マスターの温かい人柄に惹かれよく利用するようになった。マスターの名前は古田洋介。店は三十年余り続くこの辺りでは珍しく長く経営しているBarだ。二年程しか付き合いのない里胡は、「マスター」と呼ぶが長く店に通っている人は「古田さん」と呼んでいる。

 カラン。ドアの扉を開くといつもの笑顔が出迎えてくれる。

 「ようこそ、Bar Serendipityへ」

2 村山蒼

 ネオン輝く夜の街、東京。今宵、とある高級ラウンジで繰り広げられるは、男女の策略。交わす視線や流麗な言葉の応酬。ここは出逢いの激戦区でありながら最前線。フォーマルな衣装を身に纏いながらもその内に秘めるは先手必勝。好条件の相手と如何に交渉を成立させるか、知略を巡らせながら男女が眼前の獲物の心を奪い合うのだ。

「出会い系コンサルタント」などという言葉がまだ世に浸透していない時柄、村山蒼は妻と共に「男女の出逢いの場を提供する」というコンセプトでこの事業を始めた。社名は「Destiny」という。ターゲット層を二十五歳から三十五歳の女性に絞り事業展開してからは軌道に乗り始め、今では年商一億を超える有名企業となった。いまでは「出会い系コンサルタントの申し子」という形容とともに「出逢わせ屋」と巷では呼ばれている。

「それでは、今夜のパーティーの主催をさせていただきます弊社の社長村山が、皆さまに挨拶をさせていただきます」司会をする部下に紹介されマイクを替わった蒼は、グラスを片手に前へ出た。

「今宵、お集まりいただいた皆様に素敵な出逢いが訪れることを私ども社員一同心から願っております。『出逢いはあなたの人生を豊かにする』皆さまの人生の一助となれるよう、弊社が全力で皆様をサポートいたします。一人ひとりが今宵のスターとなりますことを祈念して、乾杯いたします。乾杯っ」高らかに上げられたグラスを蒼は一気に飲み干した。会場には何故か拍手が起こり、蒼はおどけながら後ろへと下がった。

 会員制のパーティーでは、乾杯の発声を社長がすることになっている。高い会費を支払っている顧客たちの前に、社長が出ないのは変だと亡くなった妻が生前に決めたルールだ。会員には高いシャンパンを振る舞っているが、蒼が飲んだグラスにはシャンパンではなく毎回炭酸水が入っている。仕事が終わるまではアルコールを口にしないというのは蒼の流儀だ。おかげで素面でも酔っていると思われ、相手の懐にすっと入ることができる。「出逢いは偶然ではなく必然である。」これも蒼の流儀だ。顧客がどんな人を狙っているのかを把握し顧客同士を結び付ける。それがあたかも偶然であるように装うことも忘れない。いうなれば「偶然」という言葉はこの世に存在しないのだ。あるのは必然と策略。

 蒼は今宵のパーティーを終え、いつものBarへと足を運んだ。そこは、浜松町のシンボル世界貿易センターが聳え立つビジネス街にひっそりと佇んでいるBarだ。店の前には地植えのオリーブの木が立っている。そこのマスターとは十年来の知り合いだ。専ら店でしか飲まないが、マスターの古田は何かと面倒見のよい人で蒼の愚痴を親身に聞いてくれる。蒼はそんな古田の人柄に惚れ込んで、毎回大きな仕事が終わるとそこに足を運ぶのだ。

 カラン。ドアの扉を内側に開くと鈴が鳴り、マスターの古田が笑顔を見せる。

 「ようこそ、Bar Serendipityへ」

 3 Bar Serendipity

 静かなジャズが優しく店内を包み込む。店内には、三十代後半の男女ペアが一組とシングルの男女がそれぞれテーブル席にいる。テーブル席は、入り口側に壁ソファーと外通り側のガラス壁の所に位置している。この店は私が三十年前に、元々喫茶店を経営していた知人から譲り受けたものだ。内装は当時の喫茶店の雰囲気を壊さないようにほんの少しだけ改装した。一面ガラス壁の向こうでは、外のフットライトに照らされたオリーブの木と高さ二三三メートルの聳え立つ世界貿易センタービルの影が額縁の中に描かれた絵画のように見える。外にあるオリーブの木は、私の娘の光が選んだ。娘は、生きていれば四十近くだろうか。

 カウンター席では、上原里胡がスマホを片手にスパークリングワインを飲んでいる。彼女の二つ隣の席には村山蒼がビールグラスを持ちながらスマホに耳を充て、誰かと話している。私は、蒼にジェスチャーで「二杯目を入れていいか」と聞いた。すると、彼も同じようにジェスチャーで「お願いします」と返した。蒼の二杯目はカクテルと決まっている。私はコリンズグラスに氷を入れ、アメール・ピコンとグレナデンシロップを入れる。次に炭酸水を静かに注ぎ、ビルドする。蒼の飲む順番は大方決まっている。一杯目はビール、二杯目はお任せカクテル、三杯目はワインと続く。その後は流れに任せて飲む。テキーラを飲み始めたときは、早めに家に帰した方がいい。

 蒼に二杯目を給したとき、彼はふと窓の外に目を遣った。「古田さん、知ってましたか。この街のシンボル、世界貿易センタービル本館が解体されるみたいですよ」

「ああ、そのことなら知ってる」私は素っ気なく応えたが、実のところ初めてその話を聞いた時は時代の移り変わりを感じた。

 一九七二年、まだ学生だった私は東京の大学に通うために田舎から上京してきた。そのとき、初めて見て感動したものは高さ二三三メートルの聳え立つ世界貿易センタービルだった。「いつかこんな立派なビルのオフィスで働いてみたい」と本気で思った。そして大学を卒業して社会人となった私は、目標を実現しビル内にオフィスをもつ会社に就職することができた。十年以上そこで働く中で、花屋を営む妻とも出逢い家族が出来た。脱サラしてBarを経営すると決めたときも世界貿易センタービルの建つこの街以外に考えられなかった。この店は、元は私が会社員時代に毎朝コーヒーを飲みに立ち寄っていた喫茶店だった。オーナーとは長い付き合いもあり、格安で譲り受けることができた。私は、世界貿易センタービルをシンボルに持つこの街が好きだ。この街は、私の夢や家族、幸福も不幸も全てを知っている。ビル解体が決まったとき、「私のこの街での歴史も終焉を迎えるときが来た」と思った。二〇二一年に解体作業が始まる。あと半年もすれば、ビル全体の足場も組み終わるだろう。私は、窓の外を見た。影を纏ったビルが明日も知らずにこの街を見つめている。半年後には、この店を売りに出すつもりだ。三十年、この店はもう十分に私の人生を楽しませくれた。

「古田さん、思い出深いっすね。僕が新人のころ、あの席によく座ってビルを眺めていたじゃないですか。よく二人で、あそこの席に座って昼飯食いましたもんね」そう言って蒼は通り側の席を指さした。彼が懐かしむ顔を私に向けた。若かりし村山蒼がそこにいた。

「世界貿易センタービルって、そんなに貴重なビルなんですか。私にはただ高いだけのビルにしか見えないですけど」里胡が言った。

「これだから弁護士は『お堅い』と言われるんだよ」その言葉が里胡の癇に障り、彼女は殺気だった視線を蒼に向けた。

「その発言、職業差別ですよ。私は、感じた疑問をただ言っただけじゃないですか」里胡もすかさず蒼に反論する。蒼は気にも留めない様子で、ただただ目の前にあるお通しのチーズをつまんでいる。

 実はこの二人、犬猿の仲なのだ。片方が右と言えば、もう片方は左という。二分した世界を互いに生きているような会話を一年前からしている。

「あなたのよく言う『浪漫』って、要するに頭の中お花畑ってことでしょ」いつもは冷静な里胡も蒼と話す時だけは、子どものように応戦する。蒼の方は、十も歳の離れた里胡を半分揶揄っているようなそんな様が見える。蒼は、口元に笑みを浮かべながらコリングラスのカクテルを一口飲んだ。

「うまっ。古田さん、これ何て名前のカクテルですか」蒼は、右手に持ったコリングラスを眺め回すように見て言った。

「アメールピコン・ハイボール。ちなみにカクテル言葉は『分かり合えたら』だそうだ」私は蒼と里胡を同時に見て言った。二人は、やはり互いに顔を背けた。

「ところで、蒼くん。私に相談したいことがあるってメールをもらったが、何かあったのかい」私は蒼に三杯目のオーダーのワインを給しながら聞いた。

「そうだった。聞いてください古田さん」と、蒼はワイングラスを片手に話し始めた。

4 言葉なきメール

最近になって顧客とのやり取り用メールのアドレスに「空メール」が届くようになった。と、蒼が話し始めた。

送信者は、以前に利用していただいた顧客の名前だった。名前は佐藤亜子。その彼女が、一日一回の頻度で「空メール」を送って来るんだ。佐藤亜子は、元ミス横須賀で美貌を持ち合わせていた。彼女を自分の相手にしたいと願う男性は、それはそれは多かった。彼女の心を射止めたのは、大手企業のやり手ナンバーワンと名高い佐藤隆一だった。結婚式で見た彼の家庭は古風と言った感じで、没落した貴族のような品位と誇りだけで生きている、そんな風な家庭だった。

会社としても「空メール」の真相を知りたいと佐藤亜子に電話をするのだが、電話には一切出ないんだ。だから心配になって三日前に俺は彼女の自宅に行ったんだ。すると出て来たのは、見るからに自信の欠片もない、こう言っちゃ何だが、生気を吸い取られたような顔の佐藤亜子がそこに立っていた。

「どうしたんですか、何かあったんですか」と聞いても、彼女の答えは「いいえ、別に何も」だった。

「空メール、ほぼ毎日送ってましたよね。俺、心配になって来たんです。何があったか、教えていただけませんか。ご主人には秘密にします」そう言うと、彼女の体が急に悪霊にでも憑りつかれたように震え出して、その場で崩れ落ちたんだ。佐藤隆一との間に何かあるなと感じたが、これ以上は聞けなかった。

その後、「空メール」は来なくなった。それが余計に心配で、彼女の身に今も危険が迫っていると思うと気が気じゃなくて古田さんに相談に来たんだ。

私は、顎にちょびっと生えている髭を指で撫でる素振りをしながら考え込んでいた。すると、里胡が蒼を真っ直ぐに見つめて言った。

DVの可能性がある。おそらく既に『共依存』の可能性もあるわね。夫の気ばかり伺って自分は夫の奴隷だと感じているかも知れないわね」

「ああ、そうなんだ。佐藤亜子は、完全に佐藤隆一の存在を恐れていた。佐藤隆一に依存してしまっている。いったいどうすればいいのか」

蒼は、頭を抱えるようにカウンターに両肘をついた。私は、蒼の肩にそっと手を置き同じ気持ちであることを伝えた。

「なあ、お前ならもっと詳しく調べられるんじゃないか。そういう夫婦を多く見て来たんだろう」今度は蒼が里胡を真っ直ぐに見つめて言った。

「出来ない事はないけど、調べたところで何か変わるわけ。あなたの『知りたい』って望みは叶っても佐藤亜子の幸せには繋がらないわよ」里胡は、毅然とした態度で言った。

「俺はただ、佐藤亜子のことが心配なだけで。別にどうこうしようという考えはない」蒼の弱気な発言に、里胡はイライラしている様子を隠さなかった。

「やっぱり『出逢わせ屋』っていうのは、ただの無責任だったようね。お金集めて男女を結び付けるだけ結び付けて、結婚させたらもう用済みってことよね。本当、大した商売ね」

「違う、そんなんじゃない。俺は佐藤亜子と佐藤隆一が夫婦としてこの難所を乗り越えてほしいと思っている。だから、調べてみて何か糸口でもあれば……。そう思っている。離婚だけが答えではないはずだ。きっと佐藤隆一にも彼なりの理由があるだろうし、とにかく信じてみたいんだよ。夫婦としてあの二人を」蒼の言葉を里胡が納得するはずもなく。言葉の応酬が続いた。

「あなたの頭の中、どんだけお花畑なの。佐藤亜子は、佐藤隆一に洗脳されているのと同じなのよ。時間が経てばそれだけ依存度が深刻化する。佐藤亜子の自尊心が崩壊していく姿を指を咥えて見ていろというの。バカげてる」どうやら里胡は、もう佐藤亜子の弁護を想定して話しを進めているようだ。

「里胡さん、私たちはまだ佐藤亜子と佐藤隆一の関係について確証を持っている訳ではないのです。私たちの今話していることは机上の空論に過ぎない。今は早急に判断を下すべきではないと思う」私の言葉を渋々受け容れる形で、里胡は口をつぐんだ。私は二人の行き詰った顔を見て、心に芽生えた好奇心のようなものを提案という形で言葉にしてみた。

「これは私からの提案だが、どうだろう、二人でこの佐藤夫妻を『救済』してみないかい」

「『救済』ですか」二人は私の提案に、驚いた表情で顔を見合った。いつもは、犬猿の仲の二人だが、いや、そういう二人だからこそ向かうべき方向を一つに導くことができれば絶大な力を発揮するのではないかと私は思った。

「どうかな、二人なら……」

「やります(やります)」二人は、同時に声を発して了承した。

「そうか、やってくれるか。では、私からささやかではあるのだが、前祝いと二人の結束を祝して、とっておきのシャンパンを振る舞おう」

「やった。太っ腹ですね、古田さん。それ、結構高いシャンパンじゃないですか」蒼がボトルを手にラベルを覗いて言った。

「いいんだよ。もうすぐこの店を閉めようと思ってね。歳には勝てないみたいだ。七十近くなったからね。ありがたいことに、30年間営業させてもらって私は満足したよ」

「そんな。私のオアシスなのに……この店が閉まっちゃったら、私の愚痴を聞いてくれる人がいなくなるじゃないですか」里胡が残念そうな表情を見せた。

「なんだよ、お前。毎回愚痴ばかり零していたのか。ちょっとは古田さんの気持ちを考えろよ」

「いいじゃない、マスターしかいないのよ。私の気持ちを理解してくれるのは」

 私は二人のやりとりを見て、思わず笑ってしまった。心の底から笑いが込み上げてきた。何年ぶりだろうか、こんなにも楽しい気持ちになったのは。

「それでは、乾杯するとしよう。佐藤夫妻の『救済』を成し遂げようとする二人の決意に、乾杯っ」

 三人で乾杯しシャンパンを飲んだ。私はふと、外のオリーブの木を見た。何だがクスクスと笑われているような気持ちになり、瞼に少し温かいものを感じた。

 こうして、蒼と里胡による佐藤夫妻への『救済』が幕を切って落とされた。

5 互い違いの主張

 乾杯した日から二週間が経った夜だった。蒼と里胡が珍しく一緒に来店してきた。

 「ようこそ、Bar Serendipityへ。今日はどういう風の吹き回しだい。二人で一緒に来るのは初めてだね」

「マスター、聞いてくださいよ」里胡がカウンターの席に雪崩れ込むように座った。

「おい、まずは何か飲み物を頼んでから話せ。常識だろ」蒼の言葉に、里胡は舌打ちして応戦したが素直に従ってワインを注文した。私は、飲み物とスペイン風オムレツを二人に給した。スペイン風オムレツは、玉ねぎ、ほうれん草、ポテトにミニトマト、にんにくとアンチョビを加えたものを多めのオリーブオイルで焦げ目をつけて焼いてある。

「うわあ、美味しそう。ちょうどお腹空いていたんです。マスターありがとう」本当にお腹を空かせた様子の里胡が感嘆の声を上げて喜んだ。

「古田さんの料理、いつも心まで満腹になっちゃうんだよ。古田さんありがとうございます」蒼は、大きな口を開けそれを頬張った。

 「ところで、何か問題でもあったのかい」私は、二人が食べ終わる頃合いを見て聞いた。

「そうなんです」と里胡が始めに答え、あとから蒼が手のひらを上に向けジェスチャーで何かを訴えていた。おそらく、両者の主張が合意に至らなかったのだろう。里胡がこの二週間のことを蒼の行動も含め話し始めた。

 二人はそれぞれの方法で佐藤亜子と隆一に接触した。彼らの心の奥底にある真実を探り出そうとした。しかし、それは彼らの警戒心を余計に煽る結果となった。

里胡は、佐藤亜子の友人を介して亜子と知り合いになり会食をした。初めは、「元ミス横須賀」時代の思い出から聞いていき次第に結婚生活のことへとスムースに会話は進んだ。だが、里胡が「共依存」で悩む女性の話をした途端に、亜子は殻を閉ざしたように暗い表情になり不機嫌になった。それは明らかに里胡を警戒している態度だった。これ以上の会話は無理だと感じた里胡は、仕事に託けて足早にその場を退散したそうだ。

 里胡は亜子との会食から、「亜子が隆一に共依存している」という確信を得たといい、「離婚」を主張した。しかし、蒼はそれに真っ向から反対した。

 蒼は、佐藤隆一とコンタクトを取っていた。新規に始めた「カウンセリング」サービスと託けて、顧客である隆一と蒼の会社で話しをしたらしかった。

 隆一は、妻の亜子に対して何の不満もないと言っていた。逆に自分が亜子にとって物足りない存在なのではないかと話したという。その表情には寂しさが影を落としていたように蒼は感じた。隆一は「妻がいつか僕に見限りをつけて離れていくのではないか」と吐露していた。と、蒼は言っていた。

 蒼は、「夫婦の再生」を里胡に主張した。隆一は亜子を縛り付けたいのではなく、愛し方を知らないだけだ。と蒼は熱く語った。

 Bar Serendipityは、店内を柔らかな光が包み込んでいた。私はカウンター席でいがみ合う二人に言葉を掛けた。

「愛とは、人間の生産的な活動である」

「えっ、何ですかそれ」里胡が疑念に満ちた顔で聞いた。

「いや、何、ちょっとした教訓だよ。『愛とは、人間の生産的な活動である』。昔、妻が私に教えてくれた言葉なんだ」

「古田さん、その話詳しく教えてください」蒼がカウンターに身を乗り出して言った。それに続くように里胡も目を輝かせて私を見ていた。

「困ったな。つい口から出てしまった言葉だけに、その続きを用意してはいないのだが。何から話せばいいのだろうか」私は、正直に胸の内を話した。

「マスターと奥さんの出逢いから聞きたいです」珍しく色恋沙汰の話を里胡が聴きたがった。蒼も私も驚いたが、里胡の目は少女のようにキラキラと光りを放っていた。私は、外のオリーブの木を見た。娘にも話したことのない妻の絹江との出逢いを、いまここで話そう。

 「あれは一九七〇年代後半の年だった……」私の脳裡には、若かりし絹江と娘の光の笑顔が広がっていた。

6 愛するとは

 あれは高度成長期真っ只中だった。世界貿易センタービルで働いていたころ、絹江はビルの近く駅前の花屋を経営していた。私よりも3つ年上の絹江は、いつも生き生きと輝いていた。私はそんな絹江の姿を毎朝夕と会社の出退勤の度に見掛けていた。そしていつしか絹江への恋心に気づいたときには、もう彼女以外に愛したいと思う女性はこの世にいないと確信していたものさ。

 告白は、散々なものだったよ。花屋の彼女に別の所で買った花をプレゼントして、「好きです、付き合ってください」と言ったんだ。すると彼女からの一言目は「この花は、どちらで買われたのですか」だった。一瞬、彼女が怒っているんじゃないかって思ったよ。だって、花屋に花をプレゼントして、おまけに彼女の店ではなく他所の花屋で買ったものを渡すなんて、って。しかし、そうじゃないってことをすぐに理解した。彼女は私から渡された花を観察して、保存状態やラッピングの細かな点を見て感心していたんだ。私は彼女のその姿に、さらに惚れ込んでしまったよ。

 かくして私と絹江は付き合うことになった。この店は、その当時、喫茶店でね。専ら私たち二人の愛を育んだ場所だったんだ。絹江は個人経営だったから年中無休で働いていて平日休日問わずにいたから、時間のある私が彼女の束の間の休憩に合わせて会えるように、昼頃から彼女の店の閉まる時間までここで時間を潰していたんだ。彼女の店の手伝いを申し出たこともあったんだ。少しでも絹江と一緒に居たくてね。でも、彼女はそれを断った。

「あなたは私の恋人であって、従業員ではない。もしあなたが私の仕事をどうしても手伝いたいというのなら、私とあなたとの間に雇用契約を結んでからにしましょう」って言われたよ。本当に芯の強い人だったよ。そこが絹江という女性の魅力なのだと私は確信したよ。

 何年か付き合って、世の中が「バブル景気」に沸いていたころ。私は絹江に結婚を申し込んだ。そのときに、絹江があの言葉を私に教えてくれたんだ。

「愛とは、人間の生産的な活動である」

 それは、愛の本質を指し示す言葉だった。絹江は続けてこう言ったんだ。

「私は、あたな古田洋介と恋に落ちたわけではなく、『恋に踏み込んだ』の。これは私が能動的にあなたを愛したいと思ったから。あなたのことをもっと知りたいと思ったし、あなたの生き方や考え方を尊重したいと思ったから。いまもこうして私はあなたと一緒にいる。あなたがいつかBarの経営者になりたいという夢も応援したい。だから、約束してほしいの。どんなことがあっても自分自身を愛すること、そして自分の愛は相手を愛する力を十分に持ち得る」のだと。あの頃の私には、彼女の言った言葉の真意を細部にまで理解していたかというと恥ずかしながら、そうではなかった。けど、彼女の熱意というか心の持ち方ははっきりと伝わってきた。それから幾年か経ち、私と絹江の間に光という名前に負けないくらいキラキラ輝いた目をした娘が生まれ、娘は15歳のときに白血病を患い翌年の16歳で亡くなった。その頃私は、ちょうど脱サラしたときでね。この喫茶店を前の経営者から格安の価格で購入して開業準備をしていたんだ。しかし、娘の病気が心配で店の開業を断念しようと思っていたときに絹江は言ったんだ。「あなたはそれで自分を愛せるの」ってね。光には、生き生きとした姿を見せてほしいというんだ。愛とは生産的な活動である。その言葉が私の背中を押したんだ。そしてその時、私は絹江の言葉を深く理解することができた。

 「自分を愛することは、自分を信じること。そして自分を信じる力は、相手を信じ、愛する力となる」

Serendipity」という名前は、そんな思いを込めて付けたんだ。幸運に巡り合う人は、幸運に向かって動き出した者だけだってね。

 娘が亡くなって3年後に次は妻の乳がんが重度なものだと分かった。1年もの闘病生活に及んだが、絹江は死の淵際でも明るく、そして誰よりも美しかった。

 「こんなんで良かったのかな」私は恥ずかしさから、拭き上げたコップを手に取りもう一度拭き始めた。

「素敵です、マスターの奥さん。絹江さんは、自立した女性のまさにお手本のような人ですね」里胡の目は生き生きと輝いていた。

「お前は、『自立、自立』って、そんなことしか考えていないのかよ。絹江さんは、依存しない関係を築きましょうと古田さんに約束したんじゃないか。『自立』というよりも、互いを高め合う方法を提示したんだ。それを古田さんが受け容れたから、二人の関係は『愛』に包まれていたんだ」蒼が里胡を宥めるように言った。

「人それぞれに考え方が違うのと同じで、私自身、今君たちが想っていることとは違うことを想っているかも知れないよ」私はいたずらをする子供のような顔で二人を見た。蒼と里胡は顔を見合わして、そして笑顔を私に向けた。

「やっぱり、ここへ相談に来てよかったです。マスターの話を聞いて、佐藤夫妻に私たちがやらなければならないことが分かった気がします」快活な表情を見せる里胡を見て、私は微笑んだ。

「『救済』できるかもしれない。古田さんの言葉は、うちの従業員にも格言として伝えておきます」蒼の言葉に、私は少し恥ずかしかった。

 二人が帰ったあと、私は店の戸締りを終え外へ出た。夜空は澄みきっていて、聳え立つ世界貿易センタービルよりさらに上にある満月が、隈なく街に光を注いでいた。

 私はオリーブの木を右手でそっと撫で、「今日も無事に終わったよ。ありがとう」と言って家路に向かった。「ご苦労様」とどこからか聞こえたような気がして、私は何故だか夜空を仰ぎ見た。満月の奥には幾千もの星たちが輝いている。地球という星は、満月のスポットライトを浴びた主演俳優のようではないか。我ながら子どもっぽい発想だなと、私は込み上げる笑いを堪えようとしたが、ふふっと声が漏れた。夜はそうやって更けていった。

 7 幸福の形

 里胡が、次に訪れたのは二週間後のことだった。蒼はこの頃、急に忙しくなったらしくあれから店に顔を見せなくなった。里胡はいつものワインではなく今日は日本酒をオーダーしてきた。今夜は、そんな気分なのだそうだ。滅多に飲まない酒だからこそ、特別感があっていい。と、里胡はいう。彼女の日本酒を飲みたいときの心境というのは私には分からない。だが、里胡が嬉しそうに飲む姿を見るに限り、きっと「救済」が何らかの形で終わったのだろうか。

「何かいいことあったのかな、里胡さん」私はだし巻き卵に辛子明太子を添えた一皿を給し、聞いた。

「実は、そうなんです。佐藤夫妻が離婚に合意しました」里胡の言葉に、私は一瞬残念な表情を顕わにした。佐藤夫妻の離婚に蒼も納得したのだろうか。夫婦の再生を二人は目指していたのではないのか。「再生」と「離婚」の文字が目まぐるしく脳裡を巡っていた。

「それが君たちの選んだ、佐藤夫婦にとっての最善策であるならば、私にはもう何もいうことはない。お疲れ様。一先ず、お祝いといこうか」

 私は里胡に日本酒を注ぎ、乾杯をした。佐藤夫妻への「救済」は、これで終わり。何だか寂しい終わり方のような気がした。

離婚は分かり合えない夫婦の最後の砦だと思っていた。ファストフードのような陳腐な愛は、結局「愛の本質」を見出すことなくシャボン玉のように宙に漂い跡形もなく消えていく。愛とはもっと――。と私は途中まで考えて止めた。時代は変わるのだから、人の心も変わっていく。いつまでも「愛は不変だ」と言っても、それはただの独り善がりでしかないのだから。

里胡は笑顔で日本酒とだし巻き卵をお代わりした。私は、里胡のためにおいしい料理と酒を振舞った。彼女のしたことに何の罪もないのだから。

 蒼が店に来たのは、その二日後だった。私は里胡が話してくれた「離婚」について彼に言及した。蒼は、真面目な顔をして「離婚」が佐藤夫妻の最善策だと断言した。あれだけ「再生」にこだわっていた蒼だったが、どうやら時代という波には逆らえなかったのだろう。こじれた関係を修復するのは、難しい。それが夫婦ならなおさらだ。

「君がそういうなら、仕方ないことだったんだよね。お疲れ様」と私は蒼にアメールピコン・ハイボールを給した。そして、里胡と同じように乾杯をしてこれまでの労をねぎらった。

 佐藤夫妻、いや元夫妻はこれからどんな人生を歩んでいくのだろう。私はふとそんなことを思うのだった。

 人それぞれに「幸福」の形は違うのだから、どれが正解かなんてものはない。思えば、私と絹江の夫婦生活もそのようなものだったのかもしれない。

 「聖書」という言葉は少し誇張し過ぎなのだが、そのようなものだと考えずにはいられない。生活環境の違う二人が契りを交わして夫婦となる。それは、いうなれば「夫婦」という形を二人で一から創り出すことだ。それは互いの違いを認め合いながら「二人だけの約束事」を決めていくこと。そうしてできた「二人だけの約束事」を綴ったものが夫婦の「聖書」となる。

絹江はとことん話し合うことを好んだ。彼女は私を「知る」ことに億劫がらなかった。楽しかった日々の記憶が血液のように私の全身を巡る。

 佐藤元夫婦は、そんな楽しい日々を得ることなく終わってしまったのか。私は、頭を振った。「蒼と里胡が、『これが最善策』と言ったんだ。彼らの決断は正しかった」と自分の心に言って聞かせた。

 外のオリーブの木が弱々しく体を震わせていた。

8 ありがとう、Bar Serndipity

 30年という年月は長かったですか。と、最近常連客によく聞かれる。数字で見れば、30という年月は長いように思える。しかしどうして、振り返ってみると、どの年も思い出深く短い年月だった。娘の光、妻の絹江、二人の死を看取った後もこの店のカウンターに立ち来店する客を迎えた。この店には、私の人生の全てが詰まっていると言っても過言ではなかった。

 「Bar Serndipity」は、今夜で30年の歴史に幕を閉じる。いつもと変わらない日常が過ぎていった。蒼と里胡は閉店間際に来店した。

「ささやかなものしか用意できなかったのですが」と、ケーキを買ってきてくれた。

「最後の日に、君たち二人が来てくれて心強いよ。これで心置きなくこの店ともお別れできそうだ。来てくれてありがとう」

 閉店時間まで三人で片付けなどをしながら過ごした。そして、蒼と里胡を帰した後、私は最後の荷造りを終えて店の扉を閉めた。私はオリーブの木の枝を一つ折った。挿し木でも伸びるだろうか。オリーブの木は、次に店舗を使うオーナーが買い取ったという。店も居抜きでいいということだったので、食器類だけの片づけで事足りた。

 私は、深夜0時の家路を歩いた。世界貿易センタービルは、灰色のカバーで覆われていて、既に解体工事は始まっている。ひっそりとしたビジネス街。30年前は、この時間でもまだスーツ姿の会社員で賑わっていた。幻影が行き交うビジネス街。時代は変わる、人の心も変わるのか。私はその答えを探しているかのような錯覚を得た。歳を取り過ぎると無駄に考えが過ぎるのだろう。私は12月の凍てつく空に、ふうっと息を吐いた。白い憂鬱が眼前の空気を染めた。

 明日からは、何をして過ごそうか。一先ず、半年溜めた録画番組でも見れば暫く時間は潰せるかもしれない。それもいつまで続くかは分からないが、何もしないよりはまだマシだろう。そんなことを考えながら、更け行く夜の浜松町を私は一つ一つ憂鬱吐き出し、歩いていくのだった。

 9 新たな門出

「古田さん、まだ目隠し取っちゃだめですよ」蒼が楽しそうに声を弾ませる。

Barを廃業した私は、家で暇に余生を過ごしていた。店を閉めてから1週間が経っていた。

「おいおい、急に呼び出すから何かと思えば『サプライズ』って、いったい何があるんだい」

「それは着いてからのお楽しみですよ。今日はいつもの感謝とお礼を込めて、俺と里胡で古田さんをおもてなしするので、気を楽にしてください」蒼の運転する車が、停車した。私の座る助手席側のドアが開かれ、里胡の声が聞こえた。

「マスター、お待ちしておりました。目隠しはもうしばらく付けていてくださいね」

「君と蒼くんが企画しているってことは、何か大掛かりなものでも仕込んでいるのかい。あまり大きくし過ぎないでくれよ」

 私は里胡に手を引かれて、ある場所まで歩いた。

「さあ、着きました。目隠しを取ってください」私は里胡に促されるままに、目隠しをゆっくり取った。

「ようこそ、セレンディピティへ」

 そこには、売り払ったはずの「Bar Serndipity」の店内だった。私に拍手を送っているのは見知った顔や初めて見る二人の男女。

「これは……」

「実は、一か月前からこれを企画してたんです。この店舗を購入したのは俺と里胡なんです。この度、二人で共同経営する形で『悩み相談所 セレンディピティ』を開業しました。その店長を古田さんにしてほしいんです」蒼と里胡は満面の笑みで私を見た。

「これは予想以上のサプライズだよ。本当にありがとう。しかし、私にそんな大役できるだろうか」私は困惑した。すると、

「あの……」私たちの元に、初めて見る二人の男女が声を掛けてきた。

「ああ、古田さん、紹介します、佐藤夫妻です」蒼は二人が一緒にいることを当然のように私に紹介したが、私の思考回路は渋滞を起こした。困惑する私の表情を見て、里胡が説明を加えた。

「佐藤亜子です」

「佐藤隆一です。古田さんのお話は村山蒼さんからよく伺っております」隆一は手を差し出し私に握手を求めた。

「どうも、古田です。二人は復縁したということですか」私の質問に、亜子と隆一は顔を恥じらいを見せながらも頷いた。

「私にはいったい、何がどうやらさっぱり分かりかねないな」私は隣にいる里胡を見た。

「佐藤亜子さんと佐藤隆一さんは、正式にはまだ夫婦ではないんです。だけど、最近隆一さんが亜子さんに二度目のプロポーズをしたらしいので、『夫婦』と言っているんです。本当に蒼さんは気が早いので心配です」

「では、離婚はしたけど付き合っていたってことなのかい。どうして」

「それは、私がお応えしますね」佐藤亜子が隆一の前に出てきた。

 亜子は、真っ直ぐに私を見て話し始めた。

 3か月前、里胡が再び亜子の元へ訪れた。里胡は「いまのあなたは『共依存』の可能性がある」と言った。でも、それは離婚を勧めることではなく、亜子が再び自分を愛することができるように手助けしたいとの申し出だった。それは隆一も同じように蒼から申し出をした。佐藤夫妻は、「再生」する術を求めていたのだ。里胡と蒼の申し出を快諾した。そして二人で話し合って「離婚」を決めた。夫婦のままだと、何も変わらない、いや、変えられないと思ったからだ。里胡と蒼は二人の考えを尊重した。彼らは佐藤夫妻の気持ちを理解することに努めた。古田のいう「自分を愛する力」を二人が持てるように、最大限のサポートを尽くしてくれた。と、亜子は里胡を見た。その後の話は里胡も加わり話してくれた。

 亜子と隆一は、互いに離れて自分と向き合う時間を設けたのだ。亜子は、「共依存」について里胡から教えてもらい自分を改めて見つめ直した。隆一は自分がこれまで亜子に対して行ってきたことの何が悪かったのかを蒼と共に見つめ直した。佐藤夫妻は、離れていてもお互いを思いやり、そのために自己を高めることを理解して努力を重ねた。亜子と隆一が再び会うようになったのは、離婚して一か月が過ぎたころだという。きっかけを作ったのは、「出逢わせ屋」の蒼だった。里胡と計画を立て、二人が一番思い出に残っている場所から「出逢い直し」をすることにした。

 亜子と隆一が一番思い出に残っている場所は、それは初めて二人が出逢ったクルージングパーティーだった。蒼は二人のためにもう一度そのパーティを開催した。成長した二人は、初めて会ったときと同じよう出逢った。しかし、以前と違うのは二人は恋に落ちたのではなく、「恋にみずから踏み込んだ」のだった。

 いまでは、以前よりも外に出て一緒にいろんなことを体験するようになった。と亜子は満面な笑みを零した。隆一は、こんなにもお転婆だったなんてと亜子の変容ぶりに手を焼いているようだったが、心から幸せを感じていることが一目見て分かる。

「そうか、そうだったのか。亜子さん、隆一くん。君たちは強い、本当に強い。愛とは、人間の生産的活動である。君たちのようにお互いを高め合える存在に出逢えたときに初めてその『愛』は育まれていくんだ。これからの君たちを私も応援するよ」

「ありがとうございます」亜子と隆一はスポットライトを浴びた主演俳優のように、堂々として輝いていた。

 「マスター、そろそろ皆に挨拶をしてください」と、里胡はシャンパングラスを差し出し、即席の台の上に私を立たせた。

「よ、待ってました。古田さん、乾杯のご発声をお願いします」蒼が遠くから声を響かせた。

「私のような者が、この場に立ってご挨拶をするのは誠に恐縮ですが、今日この日にお集まりいただいた皆様に感謝の気持ちと敬意をこめて、一言だけ挨拶をいたします。30年という月日は、思っていたよりもあっという間のことでした。それも。ここに足繁く通っていただいた皆様のお陰です。この場を借りて感謝を申し上げます。ありがとう。私をここまで導てくれたのは、皆さんの「愛」です。そして、蒼くんと里胡さんの計らいでこのような会と再就職先を得ることができました。私の余生は、どうやらまだ先のようです。この場所に「愛」を感じてくださった皆さんの幸福な未来と、これから愛を育む二人の幸せを願って、グラスを高々と上げてご唱和ください。乾杯っ」

「乾杯っ」

セレンディプティ。それは、何かを探しているときに思いもよらず素晴らしいものを発見すること、または幸運に巡り合うことを表す言葉。

 世界貿易センタービル近くに、足を運んだ際はぜひお立ち寄りください。オリーブの木が目印です。あなたの来店をお持ちしております。

「ようこそ、セレンディプティへ」

参考文献

「愛するということ」エーリッヒ・フロム著・鈴木晶訳/紀伊国屋書店/二〇二四年 第一六刷

次呂久 真司 ジロク シンジ

所属:芸術専攻 文芸領域

沖縄で小学校教員をしながら「つむぐ」というペンネームで執筆活動をしています。自著『星空の下で』は、沖縄・八重山に伝わる昔話を糸口に主人公たちが成長していく物語を書きました。ぜひ一読あれ!