詐欺に恋して
- 小説ゼミ2
文芸演習ゼミ後期課題
「詐欺に恋して」次呂久真司
これまでの人生で、私は何かを成し遂げたことがあっただろうか。アパートの一室、梁には縄が括られている。私は今、その縄の輪に自分の首を差し出そうとしている。まるで開かれた地獄の門へ、自ら進んで足を踏み入れるように。これが、私が生きてきた中で唯一「成し遂げること」なのだろうか。そう思うと、死への恐怖よりも、惨めな自分を殴り倒してやりたい気持ちが勝る。
死にゆく者の名前など、読者も知りたくはないだろう。しかし、名前を伏せたまま話を続けるにも限界がある。一先ず、形だけでも名乗っておこう。私の名前は夢野阿斗(ゆめのあと)。今日で五十歳になる。そう、今日は私の誕生日だ。けれど、目の前にあるのは、祝福のケーキではなく、縄で拵えた輪っかだ。両親は二十年前に亡くなり、妻も子供もいない。
「役立たず」「のろま」「お荷物」「給料泥棒」。職場で浴びせられた言葉は数え切れない。それでも毎朝、キリキリと痛む胃を胃薬で抑え、必死に出勤してきた。それなのに、なぜ私は解雇されなければならなかったのだろう。
二〇二五年、雇用者の給料引き上げに伴い、多くの企業で人員削減が行われた。要するに、誰かの給料を上げるために、その分の人件費が削られたのだ。私はその「削除された人件費」の一部に過ぎない。「形だけ」の美徳が好きなこの国の風潮が、私を追い詰めたのだ。
だが本当にそうなのか。解雇されたのは、単に私が無能だったからなのではないか。そう思うたび、心の奥底から湧き上がる自責の念が、私をさらに深い絶望へと引きずり込む。
私は、縄を見つめる。この輪っかをくぐることで、ようやくこの惨めな人生に終止符を打てるのだろうか。それとも、この選択すら、何かの間違いなのだろうか。
朝の光がカーテンの隙間から部屋に射し込んできた。縄の前に立ってから、どれくらいの時間が過ぎていたのだろう。辺りは暗かったはずだが。と私は光の指す一点を見つめた。そこには赤く丸いテーブルがあり、時代遅れのパカパカケイタイが置かれてあった。
「いい加減、死を覚悟しなければ」と、私は首を輪っかに通した。あとは、足場を蹴ってしまえば終いだ。さあ。意気込み足場を蹴ろうとしたその時だった。
プルルル、プルルル……。メール着信音だった。
突然の着信音に驚き、私は足場から滑り落ちた。着信音とバイブ音が部屋にこだまする。私は、自分で命を捨てることさえ、成し遂げることができなかった。
「はあ……」深いため息をつき、私はメールを開いた。
件名: 助けてください
本文:突然のメールで失礼します。本当に困っていて、どうしても誰かに助けを求めたくてメールしました。
実は、今ベトナムに旅行で来ているのですが、パスポートと財布の入ったバッグを盗まれてしまいました。パスポートだけでも申請したいのですが、お金がありません。どうしてもお金が必要なんです……。
もちろん、急にこんなお願いをして申し訳ないのですが、絶対にお返しするので、少しだけでも力を貸していただけませんか?
どうかご検討をお願いします。お返事お待ちしています。志田未来
「志田未来?」どこかで聞いたような名前だった。しかし、どこで聞いたか憶えていない。メールには写真も添付されていた。肩まで伸びた黒髪の上にサングラスをかけた女性が映っている。服装はかなりの軽装で、ノースリーブにショートパンツ。白い健やかな肌が眩しい。メールには海外の口座番号も掲載されている。
「詐欺メールか」と思ったが、ケイタイ画面に映る女性を見つめていると、なんだか不憫に思えてきた。大きな目と長い黒髪が、かつて同棲までした京子にその女性が似ていた。
京子とは同期入社だった。仕事終わりによく同期で飲み会を開いていたとき、私は毎回幹事をしていた。そんな私を見て、頼りになりそうだと思ったらしい。京子の方から付き合ってほしいと言ってきた。付き合って一年目の終わりに「結婚を前提に」となり、二年目に同棲した。そして、三年目に「見込みなし」となり、別れを一方的に告げられた。彼女は、同じ同期の出世頭と結婚した。別れてからすぐのことだった。
人生の分岐点があるとすれば、京子と別れる半年前だろうか。高齢の父親が痴ほう症を患い、その介護で母も精神を病んでしまった。私は三人兄弟の三番目であったが、二人の兄が両親の介護を私一人に押し付けた。理由は、子どもがいるからだと言った。
「子育てと介護の両立はできない」と兄たちは言った。私も「これから家族を持つのだ」と抵抗したが、兄たちは「いまは、それを成し得ていないだろう」と一蹴した。
仕事と介護の両立は、京子との距離をだんだん広げていき、私の知らないところで、京子は同期の奴と密かに会っていたのだ。京子が悪い訳ではない。それもこれも、私が悪いのだ。寂しい思いをさせてしまったことに、私は心を痛めていた
両親は、後を追うように亡くなった。初めに父が痴ほう症で徘徊し海で溺死した。その二か月後に、母が錯乱してショック死した。
会社では、同期たちが大きなプロジェクトの一員になる中、私は「両親の介護があるだろうから」との理由で、いつでも替えの利く仕事だけしかやらせてもらえなかった。両親の死後、私は会社のお荷物と言われるようになった。それからは、日陰の部署に配属され、出世なんて到底見込めない路線を歩くこととなった。
部屋の外は春の陽気に包まれていた。さっきまで死ぬことばかり考えていたせいだろうか。やけに、世界が平和に見える。皮肉なことに、その平和さが私をさらに惨めな気持ちにさせた。だが、思いのほか、私はまだ生きたいと思っているのかもしれない。気付けば、すっかり空腹になっていた私は、近くのコンビニへ足を向けていた。
ジャンクなものが食べたい。ラーメン、ポテトチップス、コーラ、ビール――食べたいものを全部買ってやる。そんなやけっぱちな気持ちに、自分で自分を嘲笑した。なんて浅はかで厳禁な奴だろう、私という人間は。
コンビニの自動ドアをくぐると、左手側の小さなスペースにATMがちらりと見えた。誰もいない。ふと、先ほどのメールが脳裏をよぎる。「志田未来」という女性は、本当に困っていて、たまたま私のメールアドレスに行き着いたのかもしれない。私のメールアドレスは単純な綴りだったし、ヤフーメールの受信だったから、あり得ない話ではない。
――本当に、困っているのなら。
泣いている彼女の顔が浮かぶ。路頭に迷う彼女を見捨てるわけにはいかないだろう。私の良心が、見ず知らずの彼女を助けなさいと言っているようだった。
私は、メールに返信をした。
「はじめまして、夢野と申します。いくらぐらい必要でしょうか?」
返信がなければ、それは他の誰かが彼女を救っているのだろう――そう思いながら、店内を歩き、雑誌コーナーで立ち読みをしていた。しばらくすると、メールの着信音が鳴った。
「パスポートが出来るまで一カ月ほど時間がかかるみたいなので、当面の生活費も工面して頂けるのなら、三十万円ほど送金していただけると助かります。」
三十万円。決して安い金額ではない。だが、人助けのためなら――そう考えた私は、手をつけていない両親の保険金から三十万円を送ろうと決めた。
ATMの前に立ち、ケイタイ片手に操作をしていると、隣の扉が開き、私は驚いた。その扉には「従業員以外立ち入り禁止」と書かれている。どうやら交替の時間だったらしく、従業員の女性と目が合った。私は慌てて視線をケイタイの画面に戻したが、女性の目線も同じところに映っているようだった。
――しまった。
ケイタイを慌ててポケットに突っ込む。画面には「志田未来」という女性の画像が映っていた。見られただろうか。怪しまれただろうか。心臓が強く胸を打ち、罪悪感とも背徳感ともつかない感情が全身を包み込む。急いで送金を済ませ、この場を立ち去ろうと再びケイタイの画面を見て送金ボタンを押した、そのときだった。
「すみません、店長の神林と申します。お客さん、いま送金されましたか? もしかして、それって詐欺メールとかじゃないですか?」
出口に向かおうとしていた私に、男性の従業員が声を掛けてきた。柔和な顔をしているが、目は笑っていない。どこか面倒くさそうな空気を漂わせている。きっと、さっきの女性から声を掛けるように押し付けられたのだろう。私は、そういう人間を見分けるのは得意だ。長い間、そういう人間を幾人も見てきたのだから。
「大丈夫です。知り合いに送金しただけですから」
作り笑いを浮かべ、なるべく棘のない言葉を選んで返した。
「そうですか……。最近、『志田未来』っていう人から送金を促す詐欺被害が増えているようですから、気を付けてください。すみません、お忙しいところを引き留めてしまって。」
男性は形だけ頭を下げて店内奥に戻っていった。
――『志田未来』という名前。
その瞬間、ようやく思い出した。そうだ、ニュースで見たことがあったのだ。詐欺メールの名前として報道されていた。私は、まんまと騙されたのか?
いや、しかし――私に送られてきた『志田未来』は、本当に困っている『志田未来』かもしれない。そう自分に言い聞かせる。だが、送金を知らせるメールを送ろうとする手は小刻みに震え、頬の筋肉は引き攣ったまま元に戻らない。作り笑いの表情を浮かべたまま、私はケイタイを見つめていた。
やっとのことでメールを送ることができた。すると、すぐに返信が来た。写真付きだ。今度は、顔が画面いっぱいに映るショットだった。
「ありがとうございます。本当に助かりました。夢野さんは、私の命の恩人です。」
画面を見て、私は安堵した。「命の恩人」と言われることに、悪い気はしない。ましてや、さっき私は自らの命を絶とうとしていたのだ。そんな私が、人助けをしているのだから――まったく人生というのは、何が起きるか分からない。
誇らしい気持ちで家路に着いた。部屋の前に着いたとき、食べ物を買い忘れたことに気付いた。自分のことよりも他人を優先に考えてしまう私は、やっぱり「どうしようもない馬鹿」なのだろう。
青空いっぱいに、春が瞬いていた。
浜田省吾は、神様だ。この事実は、世界がひっくり返ろうが変わることはない。
京子と付き合っていた頃、私はそう豪語し、何度もライブに二人で足を運んだ。まだ、両親は健在だった。
恋の駆け引きや愛だ何だというのは、すべて浜田省吾が歌で教えてくれた。「命の恩人」と言われた私は、上機嫌になり、昼間からビール缶を六缶も開け、神様の声に酔い痴れていた。しばらくは、惚けて暮らすのも悪くない。金が底を尽きた時は、その時になんとかなるだろう。私は、やけくそな人生に足を踏み入れつつあった。気分がいい。
――志田未来さんは、無事にパスポートの手続きはできただろうか?
――ご飯は食べられているだろうか?
――一人で寂しく過ごしているのではないだろうか?
そんなことばかりが頭を占めていた。気付けば、ケイタイ画面で志田未来さんの写真を眺めていた。五十歳の誕生日に人助けをした。その事実が、孤独な人生に色を添えているように感じられた。
私は、メールを打った。
>また何か困ったことがあったら、メールください。
志田未来さんの笑顔が目に浮かぶ。畳の部屋で大の字になり、午後の陽気な風に吹かれながら眠りについた。
虚ろな意識が戻ったのは、夜十時ごろだった。張り詰めていた糸が切れたからだろうか、気怠さはなく、むしろプールで百メートルをクロールで泳ぎたいような気分だった。
テーブルの上のケイタイが、着信を知らせる光を点滅させている。彼女からだろうか? 胸の高鳴りを抑えきれず、画面を開いた。
>夢野さん、本当にありがとうございます。送金していただいた金額は、日本に帰ったら必ずお返しいたします。安心してください。でも、困ったことに帰りの航空券がないことに気付きました。私って本当に間抜けで、ついてないです。何とか送金していただいたお金で、生活費と航空券を確保しようと思っています。パスポートが発行されるまで、極貧生活で乗り切ります。これ以上は、夢野さんにご迷惑をかけるわけにはいきませんから。本当に、大丈夫ですからね。
私は心配になった。ものすごく心配になった。彼女は、きっとベトナムのどこかの公園で、夜風に吹かれながら寂しくパクチーを食べているのだろう。昼間からビールを浴びるように飲んでいた自分が、なんて愚かだったのだろうか。
酔いつぶれて寝る前に流れていた浜田省吾の歌詞の一部がリピートする。
――夕べ、眠れずに泣いていたんだろう。
>返金は結構ですので、助けさせてください。あといくら送金すれば大丈夫ですか?
居ても立ってもいられず、メールを送信し、再び朝のコンビニへ走った。その間も、浜田省吾のあの曲のフレーズが頭の中でこだましていた。
>本当に悪いですので、絶対に返金はさせてください。もしお願いできるのならば、あと二十万円ほしいです。
彼女のメールに気付いたのは、コンビニに着いた時だった。店内を見回すと、朝の従業員はいない。ケイタイ片手に、今朝と同じようにATMで操作を始めた。すると、今度は大柄な男性従業員が近づいてきた。
「もしかして、『志田未来』ですか?」
にやついた顔で、上から私を見下ろしている。私は、腹が立った。彼女の名前を、友達の名を呼ぶように軽々しく口にする店員を睨みつけた。
「詐欺ではないぞ。知り合いだ。志田未来という同姓同名の知り合いが、観光先で困っているんだ。」
「それ、ベトナムでしょ。ビンゴ! おじさん、頭、俺よりいかれてるっしょ。ニュース見ない俺でも分かるっしょ。それ、詐欺すっよ。詐欺。」
「うるさい、詐欺ではないと言っているだろう。」
「やばいっしょ! それ、マジで。ジョーシキで考えたら分かるっしょ。」
「どいてくれ、邪魔だ。送金しなきゃいけないんだ。」
私は、大男を撥ね退けようとしたが、その男はピクリとも動かなかった。
「ちょっと、いまケイサツに電話してるから、待ってて。」
大男はスマホを耳に当てて話し始めた。私はATMでの送金を諦め、店を出ようとしたが、腕を強く掴まれた。
「待てと、優しく言ったろ。俺をキレさせんなよ。」
鋭い目つきが私を凍り付かせた。それこそ、まさにカツアゲやおやじ狩りの類ではないか。善意を装った恐喝に憤りを覚えた。早くこの場を離れなければ警察に連れて行かれる――そんな考えが頭をよぎる。その間にも、志田未来さんは孤独な夜を過ごしているというのに。
私は、護身術として身に付けた技を大男にかけた。男が床に転がっている間に、アパートまで全力で走って逃げた。息を切らしながら、久々の全力疾走だ。過ぎゆく夜景が美しい。生きている心地がした。
次の日、私は郵便局に来ていた。
ATMで送金を試みたが、海外の口座へは「窓口にお越しください」との表示が画面に出た。仕方なく番号札を取り、順番を待った。昨夜、彼女には謝罪のメールを送っている。すぐに送金する予定が予期せぬ事態に遭遇したためできなかった旨を伝え、「明日には、必ず」と最後に付け加えた。
窓口に呼ばれた。
「どのようなご用件でしょうか。」窓口の女性が丁寧に落ち着いた声で対応してきた。
「海外にいる友人に、送金をしたいのですが。」
「失礼ですが、送金先のお名前をお伺いしてよろしいですか?」
「志田未来です。」
その瞬間、女性の表情がわずかに硬くなった。
「お客様、いま、『志田未来』という名前を使った詐欺被害が多くありまして。」
「いや、友人です。同姓同名なんです!」
焦りが声に滲んだ。女性は眉を寄せ、さらに慎重な態度を見せた。
「すみませんが、少しお話をお聞かせ願いますか? 奥の個室に来ていただけますか?」
「警察を呼ぶんですか?」
「話の内容によると思いますが、まずはお話を聞かないことには、私どもでは判断できませんので。」
私は咄嗟に言葉を探した。何か説得力のある理由を作らなければならない。
「実の娘なんです。」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。しかし、もう後戻りはできない。
「別れた妻とともに出て行って、最近久しぶりに連絡が来たんです。妻は三年前に死んだらしく、いまは、私しか頼れる肉親がいないんです。娘は妻の旧姓を名乗っているので、志田未来といいますが、元は、夢野未来なんです。本当なんです。」
自分でも信じられないような嘘を言っていた。だが、必死だった。声は震え、気付けば涙まで流れていた。窓口の女性を見ると、彼女の瞳も濡れていた。
「大変失礼いたしました。詐欺メールと同じ名前だったので、つい疑ってしまいました。本当に申し訳ございません。では、お手続きをいたします。」
女性は一呼吸置いてから、柔らかい笑顔を私に向けた。その笑顔に救われた気がした。手際よく送金手続きを済ませ、私は二十万円を送金した。
「子ども思いなんですね。娘さんも喜んでいらっしゃると思います。」
女性の笑顔が眩しいほどだった。その顔を見ると、私は背徳感に苛まれつつも、仁義を遂行できた達成感で胸がいっぱいになった。
京子とあのまま結婚していれば、志田未来と同じ年齢の子供がいてもおかしくなかった。京子に似て、綺麗な女性に成長していただろう。
それから三日も経たないうちに、志田未来からメールが届いた。どうやらベトナムで事故に巻き込まれたらしい。搬送先の病院で高額な入院費を請求されているという。メールの文面からは、焦燥感と不安が滲み出ていた。私は五十万円を用意し、再び郵便局へと向かった。
郵便局には、以前対応してくれた女性はいなかった。今日は休みなのだろうか。しかし、日を改めるわけにはいかない。事態は一刻を争っている。私は意を決して呼ばれた窓口に向かった。
そこには男性が立っていた。
「お客様、こちらの窓口ではなく奥の個室でお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
その言葉は「伺う」というよりも、明らかに誘導する響きだった。
「どうしてですか?」
私は警戒心を募らせた。きっと閉じ込められて警察に引き渡されるに違いない。肩から下げたバッグを握り締め、心の中でカウントを始めた。全速力で逃げる準備だ。誘導に従うふりをして、出口近くから一気に駆け出すつもりだった。だが、外を見ると警察官が近くを歩いているのが見えた。
――しまった、はめられた。郵便局に入ったときから目を付けられていたのだ。
私は気づかないふりをして個室近くまで進んだ。そのとき、ふと視界にトイレの入り口が入った。すぐ隣だ。
「あのー、すみません。トイレに行ってもいいですか? 朝からお腹を壊していて……」
いかにも腹痛に苦しんでいるような演技をしてみせると、男性は少し戸惑いながらも「大丈夫ですか? どうぞ使ってください」とトイレの方を指さした。
「ありがとうございます。すぐ終わらせますので、お時間取らせないようにします。」
私は深々と頭を下げ、トイレに入った。
そこには運よく小さな窓が一つあった。私は窓の外をそっと覗き、誰もいないことを確認した。これなら逃げられる。バッグを肩に掛け直し、窓枠に手をかけて体を持ち上げた。
ひんやりとした春風が頬をかすめた。私は窓の外に飛び降りた。
人を助けることが、こんなにも難しい世の中になってしまった。そのことをいまさら嘆いても仕方ない。それでも、心の中に湧き上がる憂いは消えない。だが、私は使命を果たすために動いている。いまこの瞬間、そんな世界から抜け出そうとしているのだ。
不思議なことに、胸の奥から使命感のようなものが芽生えていた。私の人生は、志田未来を助けるためにあるのだ――そう信じられる気がした。背中から翼が生えたような感覚が広がり、私はいまにも飛べそうな気がした。足取りは軽く、胸を張って歩き出す。
志田未来に送金する。この難題を果たせるのは、夢野阿斗――私だけだ。
五十歳になって、オンライン送金の方法をインターネットで検索し、勉強した。そんなことを自分がするなんて、これまで想像したこともなかった。新しいことに挑戦するのは、いくつになっても心が躍るものだ。
ようやくオンライン口座を開設できたその日、一本のメールが届いた。
> もう私の人生終わりです。いまベトナムの刑務所に一時保留されています。病院への支払いができず、連行されてしまいました。このメールは、警察の方にお願いして、一人だけに送る許可をもらったものです。夢野さんにだけ送信しています。日本時間の午後六時までに送金が確認されなければ、私は逮捕されます。お願いです。すぐに送金をお願いします。
私は、自分を殴ってやりたい衝動に駆られた。彼女は、どれほど恐ろしかっただろう。見知らぬ土地で、警察に連行されてしまうなんて。志田未来の寂しげな顔が目に浮かぶ。早く送金しなければ――彼女の人生に取り返しのつかない汚点をつけてしまう。
慣れない手つきでオンライン送金を完了し、「送金完了」の画面をスクリーンショットに収め、メールに添付して送信した。
> 「本当にすみませんでした。送金に時間がかかってしまったこと、心からお詫びします。でも、これからはオンライン送金が可能になりました。いつでも、あなたに送金することができます。あなたの無事と安全を、心から願っています。どうか、ご無事で。」
それから一週間――志田未来からのメールは来なかった。彼女は無事に刑務所を出られただろうか。事故の傷は癒えているだろうか。日本よりも医療が発展途上だと聞くベトナムで、感染症にかかっていなければいいのだが。次々と不安が頭をよぎる。すぐにでもベトナムへ飛んで行きたい。しかし、海外旅行など生まれてこの方したことがなかった。そもそもパスポートすら作ったことがない。私の人生において、それは必要のないものだと思っていたからだ。だが、もし本当に彼女の身に何かあったとき、すぐに駆けつけられるようにしておかなければならない。そう思い立ち、私はパスポートを作ることを決意した。
いま、私は市役所でパスポートの申請を行っている。
「五年と十年がありますが、どちらを申請いたしますか?」
窓口の職員が尋ねる。
「一般的には、どちらの方が多いんですか?」
「人によって違いますが、ビジネスで海外に行かれる方は十年ものを選ばれることが多いです。旅行目的であれば五年で十分かと思います。毎年海外に行かれる予定がなければ、五年でも問題ありません。」
職員の言葉を聞きながら、私はふと若い頃の自分を思い出した。テレビで見る芸能人たちが、毎年のように海外でお正月や夏のバケーションを楽しむ姿に憧れていた。いつか自分も――そう思ったこともあった。しかし、そんな生活は一握りの人間にしか許されないものだという現実を、今では十分に理解している。
「五年のものでお願いします。そんなに海外に行くことはないと思いますので。」
「かしこまりました。」
職員は淡々と応対し、申請手続きを進める。
初めて手にしたパスポートは、幼い頃に家族からもらった写真アルバムの匂いを思い出させた。新しいページを開くような感覚――もう一度、人生をやり直しているような気がした。
それから一週間後。ようやく志田未来からメールが届いた。それは想像も及ばない内容だった。
> 「しばらく連絡ができなくて、すみませんでした。パスポートを取得することができたのですが、ベトナムの孤児院でボランティアをしていたら、障害を持った孤児が多くいることを知りました。私、彼らに何もできないことが悔しくて、悔しくて。ベトナムの医療にも限界があることを知りました。だから、私はベトナムの孤児たちをトータル支援するために法人会社を立ち上げたいと思います。多くの企業や投資家から運営資金を援助してもらえるような事業を展開していきたいです。起ち上げのための資金を少しでもいいので支援していただけると本当に助かります。Chúc bạn hạnh phúc.(あなたの幸せを願っています。)」
長い文だった。しかし、その文には夢があった。目標があった。何より彼女の優しさが、私の心を打った。私は五千万円を送金した。両親の死亡保険の残り全額だった。どうせ使う予定のなかったお金だった。それを彼女の理想の社会のために使ってくれるなら――そう思った。
> 「志田未来様、あなたの志に感銘を受けました。ぜひ、支援させてください。少しではありますが、起ち上げのための資金にお使いください。一人でも多くのベトナムの子ども達を、あなたの手でお救いください。あなたと出逢えた子ども達は、とても幸せなことでしょう。」
メールを送信して一週間後だった。普段は押されることのない部屋の呼び出し音が鳴った。私の元に訪ねてくる者など、思い当たる人はいなかった。
「夢野さん、〇〇警察署の者です。少しお話を伺いたいので、ドアを開けていただけますか?」
野太い男性の声が部屋の中まで響く。私は胸騒ぎを覚えながら、玄関のドアを開けた。そこには黒スーツに黒いネクタイを付けた屈強な一人の男性が立っていた。
「夢野阿斗さん、ご本人で間違いありませんか?」
男性が確認するように尋ねる。その声は威圧的ではなかったが、どこか冷たさを感じた。
「……はい、私が夢野ですが。」
「夢野さん、××銀行のオンライン送金で海外への送金をされていますよね。相手は『志田未来』。実は、現在詐欺被害の中で最も警戒されているのがこの『志田未来』という人物です。裏には反社会勢力組織の存在が噂されています。あなたが送金した多額の資金が、その組織に流れている可能性があります。その理由をお聞かせいただけますか?」
私は一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに気を取り直し、静かに答えた。
「一つ、あなた方にお伝えしたいのは、『志田未来』は実在します。彼女はいま、ベトナムで障害を持った孤児たちを救おうと必死に活動しています。それが、世間の人からは偽善に見えるのかもしれません。でも、私は彼女の理想を信じています。彼女の未来に投資しただけです。それが、いけないことですか?」
私の声は震えていなかった。自分の行動に後悔はなかったからだ。笑いたければ笑うがいい。そう思って、目の前の男性を見た。すると、彼は真剣な表情で私の目を見ていた。
「申し訳ありませんが、夢野さん。あなたの口座はすべて停止させていただきました。今後は『志田未来』への送金は不可能です。同時に、彼女との連絡も禁止されます。端末も我々の管理下に置かせていただきます。」
「……そんな……。」
「これは国としての判断です。すでに同じ内容で詐欺被害に遭った人々が複数確認されています。あなたの思いは理解しましたが、これは間違いなく詐欺です。ご了承ください。」
男性はそれだけを告げると、革靴の音を鳴らし去っていった。
その後、私の口座は本当に差し止められていた。メールも、それ以降「志田未来」からは一通も届かなかった。それが警察によるものなのか、それとも彼女がただ金を巻き上げるだけ巻き上げて私を切り捨てたのか――判断はつかなかった。ただ、空っぽになった口座を見つめながら、私は静かに息を吐いた。
Chúc bạn hạnh phúc.(あなたの幸せを願っています。)
志田未来から届いた最後のメールにあった一文を何度も読み返した。夢野にとって、いまはこの一文だけが、彼女からの真実の言葉だと。そう思っていたかったからだ。
コンビニ店員 大倉大和
「なんで俺が事情聴取を受けなきゃいけないんですか? マジ意味分かんねー」
コンビニ店員の大倉大和は、店内の従業員室で警察の事情聴取を受けていた。目の前には屈強そうな警察官が一人、冷静な表情で座っている。黒いスーツに黒いネクタイ。まるで葬儀屋のような恰好だと、大倉は思った。
「捜査にご協力をお願いします。お名前と年齢を教えてください」
「マジで言ってんの? ……おおくらやまと、二十六歳、フリーター。」
「ATMから『志田未来』に送金しようとしていた男性について、分かる範囲でいいので教えてください。」
「そんなの防犯カメラを見ればいいでしょ?……分かったよ、言うよ。あいつは、四十代後半か五十ぐらい? 身長は俺より低かったから、百九十センチよりは下。そうだな、百七十センチぐらい? 俺も店長から、『あいつが来たら警察に連絡しろ』って言われただけだから、細かいことは知らねーよ。ていうか、今度あいつに会ったら、落とし前つけてやるよ。俺を投げ飛ばしやがって。あいつマジで頭のネジ、ぶっ飛んでいやがる。」
「彼の名前は、知っていますか?」
「知らねーよ」
「『志田未来』のことについては、何か話していましたか?」
「覚えてねー。あー、けど、『志田未来』って言葉を聞いた瞬間、俺を睨みつけてきたよ。あと、そういえば、首のところに縄で締め付けられたようなあとがあった。」
「絞首のあとですかね? もしかして脅されている可能性もあります。怯えているような様子はなかったですか?」
「ああ、そう言われてみれば、小刻みに震えていたようにも見えたかな」
警察官は手帳にメモを書き込みながら、静かにうなずいた。
「ご協力、ありがとうございます。また、その男が来たら、連絡をください。」
名刺を置いて、警察官は従業員室を後にした。
次の日の昼前だった。
大倉は、外をぶらぶらと歩いていた。普段は部屋でゲームをしていることが多いが、たまに外を散歩することもある。本当にたまに、だ。昼間の陽光を浴びるのが嫌いだった。平和ぶっている世界が嫌いだった。
黒いパーカーのフードを深く被り、ふと煙草が切れていることを思い出す。郵便局近くのコンビニに向かおうと歩き出したそのとき、昨夜の男が郵便局に入っていくのを目撃した。
「あいつ……」
思わず声が漏れる。大倉は、男に気付かれないようそっと郵便局に入った。
中に入ると、近くの椅子に座り、スマホをいじるフリをしながら耳を澄ます。
「――娘なんです」
その一言に、大倉は思わず男の方を振り向いた。おいおい嘘だろ!と心の中で叫ぶ。窓口の女性が「夢野さん」と男の名前を呼ぶのを聞き、彼の名前が「夢野」だと知った。
夢野の話は、実際にありそうな話だった。本当のことだとすれば、昨夜自分を投げ飛ばしたことも少し納得できる気がした。家族のためなら親は体を張るべきだ――そう思う。
いまの世の中、事なかれ主義で人と人の関係性が希薄だ。大倉自身、身長が高いだけで周りから怖がられ、誰も声をかけてこない。いや、空気のように、存在そのものを無視されているように感じていた。
夢野は違う。ホンモノの父親だ。父親の中の父親だ。
目の前が滲んで見えた。大倉は、心の底からそう思った。
「俺も……こんな親の元に生まれたかった……」
大倉の胸に去来するのは、自分を捨てて他所に女を作り出て行った父親への憎しみだった。
夢野の娘、「志田未来」。いや、夢野未来か。
大倉は、この父娘を応援したいと心のそこから思った。郵便局を出たとき、大粒の涙が大倉の目に溜まっていた。
春の陽気な光が降り注ぐ中、彼は青空を見上げて歩き出した。
郵便局員 水沢美幸
「あれは、噓だったのですか?」
屈強な男を目の前に、水沢美幸は思わず声を荒げてしまった。冷静沈着でいることが会社での私の姿だ。他人にどう見られているか。裏を返せば、どう見せたいかだが。そういう計算をいつも自分に課している水沢にとって、夢野の話しに涙を流してしまった自分が、いまさらながら恥ずかしい。いや、嘘を真に受けてしまった自分が間抜けすぎて呆れているのだろう。苛立ちを露わにしていた。
「嘘だと思います。仮に夢野が本当のことを言っていたとしたら、彼は反社会勢力組織の一員ということになります。組織の一員が、自分の組織に送金するでしょうか? 詐欺に加担することはあっても、詐欺に自ら嵌ることはないと考えたまでです」
黒いスーツに黒いネクタイを締めた男は、メモに「夢野阿斗」と書き込んだ。
「夢野さんは、違う『志田未来』だとおっしゃっていました。私としては、同姓同名が本当にいるのだと思うんですが、その点はお調べになったのですか?」
水沢は、いつもの冷静さを取り戻して聞いた。
「ええ、もちろんです。日本国籍の『志田未来』を全て調べてあります。夢野阿斗さんに婚姻歴があったかどうかは、これから調べますが、恐らく嘘でしょう。」
水沢は、自分の手の甲を何度も掻いたあとが赤くなっているのをただ見つめていた。夢野は涙ながらに話していたではないか。それも演技だったのか。もう何を信じていいのか分からない。
水沢は、蒼白した顔で家に着いた。その顔を見て、同棲しているパートナーの吉田が心配して水沢を抱きしめた。
「LGBTQ」は、世間的には常識化したように見える。だが、実際は言葉だけが独り歩きしていて、偏見の目は変わっていない。なぜ、同性同士が愛し合う? 授かった性と心の性が違う? そのことについて、人々は正面から考えることを止めて、目を背け、関わることがないように気を配るようになった。簡単に言えば、思考から排除したのだ。その方が楽なことは、水沢も理解している。嫌味な上司や同僚となるべく関わらないようにしている私と一緒なのだろうと。社会人になれば、必ず習得しなければならない技術だ。けれど、パートナーの吉田梢は、「そんなのおかしい。嫌なら、はっきり嫌と言いなよ」という。水沢よりも六つ年下で、会社勤めをほとんど経験していない吉田は、青二才に思えた。それでも、水沢は吉田の優しさに、心から感謝している。吉田と出逢っていなければ、きっと私は悲観した人生を送っていたに違いない。同性を好きだと思ったのは、高校生の頃だった。同じ部活の同性の同級生に恋心を抱いたときは、自分がおかしいのだと思った。それから大学、社会人と年を重ねたが、異性に興味を持ったことは一度もなかった。むしろ、同性の唇やちょっとしたしぐさに、胸をときめかせる自分がいた。
吉田と出逢ったのは、七年前だった。同期の女性たちのほとんどが既婚者となり、水沢は、明らかに浮いた存在となっていた。婚期を逃した女性というレッテルが、いつも自分に貼り付いているような気がしていた。
吉田は、イラストの原案を郵送してもらうために郵便局に来ていた。窓口で水沢が対応した。吉田は、一目で水沢が同性愛者だと気付いた。それは、本能というか同類の匂いとでもいうように、自然なことのように思えた。
「もしよかったら、仕事終わりに近くのカフェで話せませんか?」
吉田の笑顔と言葉が意味することを、瞬時に水沢は察することができた。一瞬で顔を紅潮させる水沢に、吉田はまた笑顔を向け、名前と電話番号を書いた紙を渡した。水沢は、背中に貼り付いたレッテルがふにゃけた張り紙のように剥がれていくようだった。
二年間の交際を経て、五年前に水沢と吉田は、お互いをパートナーとして一緒に生活していくことを決めた。
「ねえ、梢はどう思う。」
水沢が、食卓で吉田梢に聞いた。話題は、夢野阿斗の話だ。
「わざわざ、自分から詐欺に合うっていうのもおかしな話だね」
「そうでしょ、おかしいでしょ。夢野さん、涙ながらに話していたんだよ」
水沢は缶ビールをごくごく飲んだ。ぷはあ、と息を吐くと吉田の苦笑いが目の前にあった。
「みっちゃん、珍しく、相当ご立腹な感じだね。」
「そりゃ、そうよ。だって、心の底から信じていたんだよ。夢野の話。それが、いかつい男に『嘘ですね』って。なんの冗談なのよ。一瞬、素人相手のテレビ番組でもしてるのかなって思っちゃったよ。『モニタリング』みたいな」
「分かる、それ。あまりにも現実味がないとそう思っちゃうよね。……でも、夢野っていうの? 彼はなんで嘘までついて詐欺に送金したかったんだろうね」
彩りの整ったチキンのトマト煮を頬張りながら、吉田が言った。
「それが分からないから、こっちも納得できないの。もう!」
そう言って、水沢は缶の残りを一気に飲み干した。
「冷静沈着な水沢美幸も、人並みに取り乱すことがあるのね」
吉田が柔らかな表情をして、箸でつまんだチキンを水沢に向けた。水沢は、それを口で受けて食べた。「おいしい」と吉田に笑顔を向けた。
「梢だったら、どう思う? 夢野は、本当に詐欺の被害者なのかな?」
「んー、こう考えてみるのはどう?」と、吉田は冷蔵庫から新しいビール缶を二缶取り出し、一缶を水沢に渡した。それから自分の考えを話し始めた。
夢野阿斗は、ヒーローになりたかった。
彼はこれまでに、誰かを助けたい。誰かの役に立ちたいと思いながら人生を過ごしてきたのだけれど、その機会がなかった。そこに、「志田未来」という女性からメールが来た。「困っているの、誰か私を助けてー」ってね。彼にとっては、願ってもないチャンス到来よ。お金を送れば喜ばれるし、自分が見ず知らずの人を助けたヒーローとして称賛されるに違いない。彼としては、何としても「送金」というミッションを成功させたくなるでしょう。是が非でも。だから、みっちゃんに嘘をついた。
水沢は、吉田の話を最後まで聞いて言った。
「やっぱり、嘘だったと思う?」
吉田は、驚いた表情をした。水沢がこんなにも「人を信じたい」という気持ちを見せたのは、付き合い始めてから一度もなかった。
「みっちゃん、変わったね」
「ん?」
吉田の言葉に、水沢が怪訝な顔を向けた。
「だって、みっちゃんいつも言っていたじゃない。『社会人というのは、協調性が大事なのよ。自分がこうだと思っていても、周りが違うと言ったら、それに従う方が楽なのよ」って。でも、いまのみっちゃん、周りよりも自分の気持に真っ直ぐって感じ。」
とびっきりの笑顔を見せる吉田に、水沢は心臓が激しく動いた。吉田のその顔が、好きだ。
「そうかなあ」と、水沢が顔を赤らめながら言った。
「私は、そっちのみっちゃんの方が好きだな」
「ちょっと、茶化さないでよ」
「本当だよ。……みっちゃんが夢野阿斗さんの話を信じると思うのなら、私も信じる。だって、みっちゃんが信じたいものを私も信じていたい。」
吉田の目は真っ直ぐ水沢に向いていた。水沢は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。そして、これまでの吉田に申し訳ない気持ちがした。水沢は、吉田の考えを「青二才だ」と真剣に聞いてこなかったように思う。周りと同じでなければいけないと決めつけていたのは、自分自身の方だったんだ。「LGBTQ」のことについても、周りが理解してくれるはずがないと、そう決めつけていたのは私の方だった。私が一番私を信じていない。梢との関係も、職場では従妹ということにしている。でも……。
「ねえ、梢」と、水沢は吉田の目を見つめた。
「何、真剣な目をして」
「明日、職場に、『私は同性愛者です』ってカミングアウトしようと思う。それから、私の両親にも会ってほしい。」
水沢の言葉に、吉田は驚いた顔を見せたがすぐに笑顔になった。それから、目の前の水沢の手を取り、優しく言った。
「世間からどう思われようと、私はみっちゃんのこと大好きだよ」
温かな明かりがともる食卓に、二人の笑い声がいつまでも続いていた。
志田未来
南国の日差しがじりじりと肌を焼くような強さだった。だが、ここはベトナムではない。日本のどこかだ。それ以上の詳細は伏せておこう。
「志田未来」という架空の人物を作り出し、裏ルートから仕入れた顧客名簿をもとに無作為に選び出した相手にメールを送る。最近では、この手の詐欺は「ロマンス詐欺」と呼ばれるようになった。だが、内部の者にとってはただの「仕事」だ。入念に練り上げられた人物設定とシチュエーション。まるでロールプレイゲームのようだ。実際、ゲーム会社を辞めた人間がこの組織にいるという噂もある。本当か嘘かはどうでもいい。この業界で重要なのは、金になるかならないか、それだけだ。
先日送ったメールに、早速返信(レスポンス)があった。メールに添付した写真に鼻の下を伸ばしている男の顔が目に浮かぶ。その写真はSNSから適当に拾ってきたものだ。可愛い女性の画像を選ぶだけで、男たちは簡単に釣れる。
組織では、本名を名乗る者はいない。みんな好き勝手にネームをつけている。今回の「志田未来」役を演じたのは、新入りの若い男だ。ここでは仮に「志田」と呼ぶことにしよう。 志田は、届いた返信メールを読んでいた。
「ジョイさん、本当にあのメールに反応するやついるんですね。馬鹿ですね、こいつ」
志田は、半笑いでそう言った。ジョイとは、志田より一年先に入った先輩だ。冷静で無駄のない仕事ぶりから、組織内で一目置かれている存在だった。
「だから言っただろ。世の中、馬鹿が多いんだよ。自分だけは平穏無事な人生を送れるって、根拠のない自信だけで生きてる奴らばっかりだ。そういう慢心が隙を生むんだよ。自分が『金のガチョウ』だってことも知らずにな」
「なるほどです。勉強になります」
「調子いいこと言うなあ。今回はお前の初仕事なんだから、ぬかりなくやれよ。ところで、お前、いつまでスーツにネクタイなんかしてんだよ。葬儀屋でもあるまいし、黒一色でよ」
「妻に、葬儀屋で働いてるって言ってるもんで、いつもこの格好なんですよ」
「詐欺師の性だな。まあ、プライベートも仕事も、ぬかりなくな」
ジョイは志田の肩を軽く叩き、部屋を出て行った。
志田は、夢野と名乗る男に返信メールを送った。内容は、組織であらかじめ用意されたテンプレートをコピペしたものだ。口座番号も海外の複数の口座を使い分けている。一つの口座に集中すると足がつく危険があるため、送金された金は複数の口座を経由して最終的に組織に流れる仕組みだった。
志田は、組織に入って初めてターゲットのことを「金のガチョウ」と呼ぶことを知った。ガチョウが産む「金の卵」とは、すなわち金そのものだ。
夢野とのメールのやり取りは、二週間を過ぎても続いていた。通常、この仕事は短期決戦が基本だ。だいたいその頃になると、警察の影がちらつき始めるからだ。しかし、夢野のメールからは警察の気配が一切感じられない。それどころか、相手の熱心さにこちらが騙されているのではないかと疑いたくなるほどだった。
「こいつ、やばくないか? もしかして、サツなんじゃねえの?」
ジョイが眉間に皺を寄せながら言った。
「俺も、今そう思ってたところです。でも、もっと金を送りたいって言ってますよ。サツか、本物の金持ちなんじゃないですか?」
「馬鹿、金持ちならこんな詐欺に引っかかるもんか。こいつは、本物の馬鹿なんだよ。借金してでも送金してくるような馬鹿なんじゃねえか。早く手を切ろうぜ」
ジョイの言葉に、志田も同意した。これ以上関わればリスクが高くなる。志田は、相手にこれ以上関与できないと思わせるようなメールを考え始めた。
「これで送金してきたら、マジでこいつイカれてるぞ」
ジョイはそう言い残し、煙草を買いに部屋を出て行った。
志田は、メールの送信ボタンにカーソルを合わせたまま手を止めた。もう一度、メールの内容を見直す。それから、最後に一文を加えた。それはベトナム語だった。以前、志田がベトナムを旅行した際に現地の人から教わった言葉だ。なぜか、その一文をどうしても付け加えたかった。
夢野は懲りずに送金してきた。それも五千万円という高額だった。ジョイも志田も、その金額に驚愕し、不安を隠せなかった。
「こいつ、やべえぞ」
「もう返信するのはやめましょう」
「俺もそれに同意だ」
二人は顔を見合わせた。ジョイが心配していたのは、これが「おとり捜査」ではないかということだった。志田もその可能性を考えた。これだけの金額を無償で送る人間などいるはずがない。金の流れを追って、組織の実態を暴こうとしているのだろうか。
だが、志田は冷静に考えようと深呼吸した。これが罠だという確証はない。しかし、本当に善意だけで見ず知らずの相手に三千万円を送る人間がいるのだろうか。一度、「夢野」という男に会ってみる必要がある――志田はそう心の中で呟いた。
この件を受け、コードネーム「志田未来」は打ち切りとなった。使用したパソコンは全て破棄する決まりだ。志田はバスタブに水を溜め、パソコンを沈めた。夢野とのメールのやり取りを思い出していた。
「夢野阿斗。一度会ってみたいな」
志田は沈むパソコンを見つめながら、そう呟いていた。
夢野阿斗
その日は、再就職先の任命式だった。人生の再出発にふさわしい、うららかな春の陽気に包まれた心晴れやかな日だった。
夢野は「志田未来」からのメールが途絶えてから数ヶ月後、住んでいる市が行う保育士育成プログラムを受けることにした。保育士不足が深刻な地域の施策の一つで、プログラムを受けながら給料が支給される制度だった。全財産を使い果たしていた夢野にとっては、まさに救いの手だった。
一年間のプログラムを終えた夢野は、五十歳で保育士として新たな道を歩み始めた。新設された保育園は五千万円相当で建てられたそうだ。園長先生が出勤初日に嬉しそうに話していたのを思い出す。
夢野はその風格から、保護者たちに「園長先生」と間違えられることも少なくなかったが、本人はそのたびに照れ笑いを浮かべて否定していた。
任命式では、保護者たちを前に担任名とスタッフの紹介が行われた。職員だけの初顔合わせに来られなかった外部スタッフも、この日ばかりは全員が揃う。園長先生が一人ずつ役割と名前を紹介していく中、遅れて一人のスタッフが会場に入ってきた。
夢野はその姿を見て、思わず息を飲んだ。目の前に現れたその人物は、あの時のメールに添付されていた写真と全く同じ姿形をしていたのだ。
「あ、間に合いましたね。もう来ないのかと思っていましたよ」と、園長が笑顔で声をかけた。
「それでは、最後にコーディネーターとして、いくつもの保育園を回り、子どもたちの発達を支援してくださいます。志田未来先生です。」
その瞬間、夢野の膝から力が抜け、その場に尻もちをついてしまった。保護者たちはそれをギャグだと思ったのか、会場に笑いが広がった。
「絶対その反応があるかなって思っていましたよ。」
志田未来が夢野の尻もちに軽くツッコミを入れる形となり、さらに会場全体が笑いに包まれた。
「昨年は、『志田未来』って人前で言うことができなかったんですから。皆さん、これだけは言わせてください。私は本物です!」
元気いっぱいの声でそう言いながら、志田未来は満面の笑みを見せた。会場からは拍手が沸き起こり、温かな空気に包まれた。
夢野はようやく立ち上がり、顔を上げた。その瞬間、志田未来と目が合った。心臓の音が周囲に聞こえているのではないかと思うほど、夢野の鼓動は高鳴っていた。
「いた。やっぱり、志田未来はいたのだ。詐欺ではなかったのだ」
夢野は心の中で、何度も何度もそう叫んでいた。一年前の出来事が鮮明に蘇る。
今度は、彼女の夢をすぐそばで支えたい――そんな想いが胸の中で膨らんでいくのを感じていた。
保育園に隣接する小さな管理棟では、黒スーツに黒ネクタイの男が、防犯カメラの映像を静かに見つめていた。
「これも、詐欺師の性ってやつか」
男は画面越しに微かに笑い、映像を一度止めると、画面を暗転させた。